【アスリートインタビュー】全国経験なしからプロバスケ選手へ!崎原成美のストーリー

2023-2024シーズンが終わり、一人のバスケットボール選手がwリーグから去ることとなった。

その選手とは、トヨタ紡織で3年間プレーした崎原成美選手だ。

東京医療保健大学ではインカレ4連覇を達成。
wリーグ3年目となる2023-2024シーズンではトヨタ紡織で開幕スタメンに抜擢されるなど一見順風満帆と思われる彼女のバスケットボール人生は、想像を超えるほど大きな壁の連続だった。

今回はそんな崎原選手のバスケットボールストーリーをお送りする。

プロバスケ選手を夢見たミニバス時代

崎原選手は千葉県浦安市出身。小学校1年生の頃、先に習い始めていた4歳上と3歳上の姉に付いて体育館へ行ったのがきっかけでバスケットボールと出逢った。

本格的に始めたのは小学校4年生の頃。「wリーグ」というリーグがあることもまだ知らなかったが、「将来はプロバスケットボール選手になりたい」と夢見ていたという。

先輩が化粧して試合に!大改革を行った高校時代

中学は地元の明海中学に進学。バスケ部に入ったがチームのレベルは高いとはいえず、地区大会の1回戦目で負けてしまうこともあった。

高校は学館浦安高校に進学しバスケ部に入部するも、また違う角度での壁に直面していた。
先輩たちが少々ヤンチャでバスケットに対し真面目に取り組んでいなかったのだ。

「先輩たちは眉毛かいてるしアイプチも皆してるし化粧とかして試合出てましたね。ギャルというかヤンキーというか。試合中ベンチにケープとかBBクリームが置いてあるんですよ。勘弁してくれよみたいな(笑)」

そんな環境だったが、スポーツ好きでよく試合を観に来てくれていた父からは「お前らは負け癖がついている。そんなんじゃ上には行けないぞ!」などと声を掛けられていたこともあり、崎原選手自身は大好きなバスケットに情熱を持って取り組んでいた。

そうして下級生の頃から中心選手としてチームを支え、ペイントエリアでのステップインや高い身体能力を活かしたリバウンドといった空中戦の強さなど個人のスキルをどんどん高めていったという。

高校時代(写真:崎原選手提供)

「崎原にボールを集めろって監督から周りに言ってもらって、自分は自由にやってましたね。もうバスケの知識とかなかったです。チームプレーとかフォーメーションとか何もなかったですね。」

先輩たちが引退し自分たちの代になると、崎原選手たちはチームの大改革を行った。

「先輩たちがやってきた良くないことはやめよう!って言って真面目にやるようになりました。」

副キャプテンとして勝てるチームへと変化させ、高校3年生の最後のインターハイ千葉県予選では県でベスト8か16まで勝ち進んだ。

「高校時代、どうせ負けるからと思って成績とか気にしてなかったんですよ(笑)県でベスト8いったのかな~どこまでいったか覚えてないくらいです(笑)最後は赤穂ひまわりちゃんがいる昭和学院とやってボコられて終わりました。でも最後までひまわりちゃんたちAチームを下げさせなかったのを覚えてます。」

wリーグでプレーしている選手にはミニバスから全国大会を経験している選手も多くいる中、全国大会の経験はできなかったものの県大会で大活躍を見せた崎原選手。

それでもプロとの差はまだまだ大きいと思っていたため、プロバスケ選手という夢も意識しなくなっていたそう。

「(プロの世界の厳しさや実力の差に)だんだん気付き始めるじゃないですか。現実を知るというか。中学とか高校時代は夢がいっぱいあったんですよ。動物が好きだったんで動物園の飼育員とかイルカのトレーナーになりたいと思ってました。」

と全く別の夢を持つようになっていたという。

本当は医療じゃなくて白鴎に行きたかった?運命の進路選択

動物に関わる職業に憧れていたある日、バスケット選手として転機が訪れる。

複数の大学からスカウトがかかったのだ。

高校では高い身体能力を活かしたプレーで1試合平均15点決めるほどの選手へと成長していた崎原選手。

「学館浦安に凄い選手がいる」と関東の大学にその噂は広まっていたのだ。最終的には2部の大学も含め10校ほどの大学からスカウトがあったという。

当時、崎原選手自身は大学に1部や2部があることも把握しておらず、後に進学する東京医療保健大学(以下医療)に至っては存在も知らなかったほどだった。

「一番最初に声をかけてくれたのは白鴎の佐藤先生でしたね。その後に医療の恩塚さんも学校に来てくれました。」

崎原選手自身ははじめ白鴎大学に進学を決めていたそう。なぜなら、どうしても医療に行きたくない理由があったからだった。


崎原選手が高校3年生で医療の練習に参加した頃というのは、恩塚さんがまだ「ワクワク最強説」に目覚める前の恩塚亨恐怖政治時代。とにかく怒鳴り散らして選手を動かす指導法をしていた時代だ。

崎原選手は医療の練習に参加した当時のことをこう振り返る。

「当時4年生がウィンさん(現秋田・平松飛鳥選手)、レンさん(現羽田・水野菜穂選手)、モモナさん(現ウリ銀行・宮坂桃菜選手)の代だったと思うんですけど、恩塚さんがとにかくブチ切れまくってて、『ビデオ見てきてないやつは全員出ろ!』みたいな。だんだん体育館にいる人数が減っていくんですよ。最終的には6人くらいしかいなくなっちゃって。うそでしょ!?みたいな(笑)先輩たちの雰囲気もすっごいピリピリしてて怖かったです。だから絶対医療には行きたくありませんでした。白鴎は凄い明るくて良い雰囲気だったんですよ。だから白鴎に行きたかったです。」

恩塚さんは高校生が練習に来ているにも関わらず、良くも悪くも「医療の日常」の姿をそのまま見せてしまったのだ。バスケットの要素をなくしたら完全にヤクザ方面の世界だ。

そんなこともあり頭の中では白鴎一択だったのだ。

「佐藤先生(白鴎大HC)からは8月中には返事が欲しいと言われてて、7月末には『白鴎でやっていきたいです!』ってメールしちゃったんですよ!」

と、白鴎での充実したバスケットライフを掴みかけていた。

しかし、ある問題があり佐藤HCにメールしたあとすぐ緊急家族会議が開かれたのだった。

幼少期に両親が離婚し父子家庭で育った崎原選手。大学進学に際し経済面で不安があったという。

地元を離れて大学でバスケットをするには学費に加え家賃や生活費、部活のグッズ代や遠征費など大きな負担がかかる。

その点、医療の方はメーカーからバッシュやバスパン、Tシャツ、靴下、ユニフォームなど必要な物品は全て無料で提供される。その他寮費など経済的負担が少ない点なども考慮すると白鴎より医療の方が良いのではないかという両親の考えがあったのだ。

「恩塚さんからもそこ(経済面での負担の少なさ)をゴリ押しされましたね。」

こうして白鴎の誘いを断り、ほぼほぼ軍隊だった医療への進学が決まったのだった。

「医療に行くことになったときは大泣きしました。もう絶望ですよ。試合にも出られないしいじめられると思いました。入るのは怖かったです。でも恩塚さんがリオオリンピックに行ったときの開幕式の写真を見せてくれたり熱いメッセージをくれたりして、こんなにバスケットに情熱を持った人がいるんだって。この人に付いていこう!という覚悟を持ちました。」

最終的には恩塚さんの情熱に心を動かされ医療への進学を決めたのだった。

自分の生きる道はここ!フィジカル強化のために取り組んだ栄養管理!

いよいよ医療に入学。「調理実習とかもあって楽しそう」という理由で栄養学科を選んだ。

しかし、入学前から「絶対いじめられる」という恐怖やストレスで食欲不振へと陥っていた崎原選手は、身長178㎝にして体重60㎏まで落ちてしまっていたという。

「医療に入るのが怖すぎて、結構環境の変化にも自分弱くて、入学前からご飯食べられなくなっちゃったんですよ。喉を通らなくなっちゃって。でも医療の寮のご飯って重量が決まってるじゃないですか。自分は1食450gだったんですけど、最初はおかずが口に合わなくて食べ切るのが大変でした。入学して2週間くらいで4㎏体重が増えましたね。身体が重かったです。」

現役時代、強いフィジカルを活かした粘り強いディフェンスや当たり負けしないオフェンス、リバウンドなど力強いプレーが印象的だった崎原選手。そんなプレースタイルに欠かせない「フィジカル強化」は医療に入学したこの頃から始まっていったのだった。

「身体をカッコよくしたいというのもありました。あともともと結構ウエイトも好きだったんですよ。重さも挙げられたら次はもう同じ重さでやらないとか、そんな感じでどんどん重さを上げていきましたね。自分は他の選手と比べてスキルがある訳でもないし頭も良い訳でもなかったんで、フィジカルで戦うしかないというか、自分の生きる道はここだと思ったんで体を鍛えていきましたね。」

そうしてウエイトトレーニングに加え栄養管理にも力を入れていったという。

「大学2.3年生のときはどのくらいの体重が動きやすいのかいろいろ試してました。増量するときはカロリーメイトのドリンク1本200kcalのやつを朝食と昼食の合間に1本、練習前に1本、練習後にも1本飲んでましたね。あとオレンジジュースとか菓子パン、和菓子、エネルギーゼリーとかとにかくエネルギーを優先して摂ってました。プロテインも3回飲んでた時期もありました。けどそしたら健康診断でたんぱく尿が出ちゃって、バスケ部から何人かたんぱく尿出ちゃったんですよ(笑)なのでさすがにプロテインはやめましたね。」

増量期には寮の食事(米飯450g/食)に加えエネルギー源となる糖質を中心とした補食を1日に複数回補給し、ピーク時には体重71㎏、体脂肪21%まで増量した。

「このとき(体重71㎏)は少し動きづらかったですね。体重69㎏の体脂肪16-17%くらいが自分にはベストかなと思ったのでそれ以降はこの体重をキープしてました。」

肉体改造(写真:崎原選手提供)

こうして食事量による体重変化とパフォーマンスを分析しベスト体重を導き出していったという。パフォーマンス向上のために選手自ら栄養管理、体重管理ができるのは一流プレイヤーの証だ。

キャプテンとして臨んだインカレで4連覇達成

4年生になった2020年は新型コロナウイルスが猛威を振るい、春のトーナメントや新人戦などの大会が中止されこれまでとは違ったシーズンを過ごしていた。

そうして迎えた秋のリーグ、日本体育大学戦ではチームは勝利したものの、内容に納得がいかなかった恩塚さんは選手を怒鳴り散らしていた。試合中には恩塚さんがテクニカルファールも吹かれ、チームの雰囲気は最悪だったという。

恩塚さんは、勝っても全く嬉しそうじゃない選手たちを見て「自分の怒りが選手の思考の妨げになっているのではないか」と感じ、そこから「ワクワク最強説」を提唱し始め、全く怒らなくなっていった。

今まで怒鳴り散らしていた監督が急に怒らなくなりニコニコし始めたことで選手たちははじめ戸惑いもあったという。

「あり得ないくらい怒鳴ってた人が、褒めてくるんですよ。朝恩塚さんに挨拶しただけで『い~ね。気持ちいいね。元気だね。力もらったよ!』みたいな。怖かったです。また急に怒り出すんじゃないかって。」

しかしその戸惑いとは裏腹に、ここに至るまでに作り上げた制度の高いバスケットに加え、ワクワク最強説で手に入れた自信や当時掲げていた「ヒーローマインド」によってこれまでにないほど最強のチームが完成。圧倒的な強さで見事インカレ4連覇を達成したのだった。

「インカレ前までのチームの完成度がエグかったんですよ。「ヒーローマインド」とか「ワクワク」とかって一見狂ってるじゃないですか?(笑)でもそういう考え方とかもチーム全員に浸透していって『自分たちはやれるんだ!』っていう自信が凄かったですね。」

夜の病院に不法侵入!病院実習中に受けたトヨタ紡織のトライアウト

インカレ優勝から少し遡ること2020年8月末。チームはリーグ戦を目前に控えた頃。崎原選手は都内の病院に実習に行っていた。

崎原選手と筆者も在籍していた栄養学科とは管理栄養士になるための勉強をする学科で、卒業するためには4週間の病院実習が必須となっている。

またコロナの影響でこの年の病院実習は通常週5日間を4週間のところ、週6日間を3週間と期間も短縮された。つまりリーグ戦直前の3週間、月曜日から土曜日まではチーム練習には出られなかったのだ。

「あの時は本当大変でしたね。朝練して実習に行って夜レポート書いてみたいな。」

そしてそんな多忙を極める中、トヨタ紡織のトライアウトも予定されていたのだった。

「実習2週目が終わった日曜日にトライアウトだったんですよ。なので土曜日の実習が終わってすぐ病院に恩塚さんが迎えに来てくれてそれで東京から急いで愛知に移動しましたね。」

wリーグからは山梨や秋田など他のチームからもスカウトがあったというが、報酬や待遇面からどうしてもトヨタ紡織に入団したいという思いがあった。

「山梨とか秋田からも誘われてたんですけど、仕事しながらバスケもするって大変じゃないですか。恩塚さんからも『プロになれば東大卒よりも金がもらえるぞ!だからトライアウト頑張れ!』って言われてました(笑)」

そんな意気込みでトライアウトに向かっていた矢先、大きなトラブルに見舞われる。

実習先の病院に財布を忘れてしまったのだ。

急いで取りに戻るとすでに病院の営業時間は終了しており院内は真っ暗闇。

しかし、トライアウトは待ってくれない。

暗闇の中、実習先の病院に勝手に侵入。ササっと財布を取って病院を出ようとしたが、見つかってしまったのだ。

「病院の人からかなり怒られましたね。不法侵入だよ!って。大学の先生にも連絡されちゃって。もうとんでもないことをしてしまいました(笑)でもそんなことよりトライアウト行かなきゃ!!って大急ぎで出発しましたね。しかも大慌てで出てきたんで実習中スリッパとして使ってた靴で出てきちゃったんですよ(笑)」

そんなトラブル続出の中、トヨタ紡織の本拠地である愛知県にやっとの思いで到着。時刻はすでに夜中の1時頃だったという。連日の実習で練習も満足にできておらず、さらに実習で睡眠不足状態。また財布事件でメンタルもやられている中、翌朝8時からトライアウトが行われた。

「トライアウトっていっても朝8時からの練習に普通に混ざるって感じでした。当時の監督が中川さん(現シャンソン化粧品HC・中川文一さん)だったんですけど、その日のうちに『うち来るか~』と言ってもらえました。」

なんとかトライアウトを終えた崎原選手。見事トヨタ紡織への入団を勝ち取りプロバスケ選手としての道を切り開いたのだった。

「恩塚さんからも帰り道『良かったな~』って言ってもらえて、次の日からまた1週間実習に行って、すぐリーグが始まって。なんかその辺凄い壮絶でしたね。」

と当時を振り返った。

模試75点から逆転!管理栄養士合格

wリーグへ進むことが決まっている選手たちは内定先のチームにアーリーエントリーし、卒業前からwリーグで活動することがほとんどだ。

インカレが終わり崎原選手もアーリーエントリーするかと思われたが、3月には管理栄養士国家試験が待っていた。 

「自分はバスケ部でもキャプテンやったし、インカレ優勝もしたし、もう疲れたしいろいろきつかったんで、管理(栄養士)はいいかな~って思ってたんですけど。小西先生から『絶対に取れ!君なら出来る出来る!』って凄い言われて受けることになりました。だから自分アーリーも行かなかったんですよ!」

はじめは受けるつもりはなかったが、栄養学科の学科長である小西先生からの熱烈な勧めがあり国家試験を受けることになったという。

「小西先生が自分専属で国試対策してくれることになって、毎日小西先生にメールして今日は何を何時間勉強しましたとか模試の点数とか報告してましたね。」

そうして半ば強引に学科長による「管理栄養士合格プロジェクト」が推し進められたのだった。

「全然ダメでしたね。自分模試でも一回も合格点取れたことなかったんですよ!3月に試験なのに、1.2月の模試でも75点とかでしたね。勉強もバスケ部の寮でやってたんで、何も背負ってない情報学科のやつらとかいるじゃないですか(笑)。だからあんまり集中できなくて、1日4時間くらいしか勉強できませんでした。」

管理栄養士国家試験は1問1点で200点満点中120点取れれば合格となる。専門知識が必要となるためそれなりにしっかり勉強しなければ合格できない試験だ。

一般的に2月の時点で75点という点数は絶望的と思われるが、それでも最後まで諦めず勉強を続け、迎えた国家試験。

ベストを尽くしたが自己採点では118点と2点足らなかったという。

「小西先生からも『ま~とりあえず結果を待ちましょう』と言われてました。」

3月末の合格発表当日。崎原選手は膝のボルトを抜く手術を受けていた。手術が終わったらネットで合否を確認しようと思っていたそうだ。

「手術が終わって、麻酔から目が覚めるか覚めないかみたいな時に、あっやばい合格発表見なきゃ!と思ってスマホ開いたら小西先生から『合格おめでとうございます』ってメールが来てて(笑)あ!受かったんだ!みたいな(笑)」

なんと模試75点から見事逆転!合格していたのだ。こうして管理栄養士免許を持つプロバスケ選手が誕生したのだった。

仲間とバッチバチ!勝ち取った開幕スタメン

トヨタ紡織に入団した1年目。トライアウトの時にHCをされていた中川さんが退任し新しいHCとなっていた。

1年目はプレータイムをもらえず苦しい時期が続いたという。

「3日間の遠征に行っても自分一人だけ1分も出されないこととかありましたね。めっちゃメンタル食らってました。」

2年目になると再びHCが変わることになった。練習内容もガラッと変わり、はじめはその変化に対応できずミスを連発。

「そりゃミスする人は試合に出られないよね、となるんですけど。そんな感じでうまくいかない時期が続いていましたね。もう折れかけてました。どうせ試合に出るのも年功序列なんだって、腐ってましたね。移籍も考えてました。」

そんな腐りかけていたとき、ある出来事が再び這い上がるきっかけになったという。

「2年目のシーズン中に地元の浦安で試合があったんですよ。凱旋試合じゃないですけど、全然活躍もしてないのに花束とかもらえるんですよね。地元の友達もいっぱい来てくれたし小学校や中学校の先生もたくさん来てくれて。その試合ではプレータイム10分くらいだったんですけど結構活躍できたんです。その試合が大きかったですかね。もっと頑張らなきゃなと思いました。」

トヨタ紡織時代(写真:崎原選手提供)

そして迎えた3年目、再度HCが変わったのだ。

今度はスペイン人のルーカス・モンデーロ氏がHCに就任。これまでの日本人HCはどこか年功序列を重んじているように感じていたという。だがスペイン人はそんなことはない。選手全員をフラットな状態から評価してくれる。

「ここで頑張ったらいける!って思いました。」

崎原選手の目標はスタメンを勝ち取ること。そのためにやれることは何でもやろうと覚悟を決め3年目のシーズンをスタートさせたという。

ポジション争いでライバルとなったのは一つ上の学年でプライベートでも仲が良い佐坂樹選手。

「佐坂とは死ぬほどバッチバチでしたね。周りが心配するくらいやり合ってました。フィジカル勝負だったんですよ。タイプも全く一緒で。仲も良いんで練習中に嫌味言い合ったりもできるんですよ。自分も相手にやられたら普通に肘入れたりして『あの当たり方やばいでしょ!肘入れてんじゃん!』『いやそっちがやって来たからやり返しただけね!』みたいな言い合いもしてましたね(笑)」

リアルブレイキングダウンが始まっている(笑)

「コーチたちも2人はタイプが似ていると思ってましたね。だから自分は相手にミスさせるようにディフェンスしてました。ミスさせて佐坂との差にしてやろうって、コーチにアピールしてましたね。もう蹴落とし合いなんで!」

トヨタ紡織時代(写真:崎原選手提供)

それもそのはず。ここは修羅の国wリーグ。毎日が殺るか殺られるかのデスバトルだ。仲良しこよしでは生き残れない世界。チワワみたいな女はすぐに消される。それがwリーグなのだ。

「でもそれもめっちゃきつかったです。もう毎日MAXの戦闘モードでいなきゃいけないんで。バスケットから離れたら仲良いけど、バスケットのときはバチバチにやってるのもきつかったし、体力的にも精神的にもきつかったです。」

こうしてメンタルも削りながら何が何でも!という思いで戦い続け、ポジション争いという名のデスバトルを制した崎原選手は見事開幕スタメンを掴み取ったのだった。

「彼女(佐坂選手)は意識していたかわからないんですけど(プレーや体格も)似ているタイプだし、体格はちょっと彼女の方が大きいし、私にとっては彼女を倒さないとまずコートに立てないと思っていたので本当に嬉しかったです。」

トヨタ紡織時代(写真:崎原選手提供)

こうしてスタメン出場を果たした崎原選手。このまま3年目は順調に活躍を見せるかと思われたが、シーズン途中からプレータイムがガクッと激減。この頃から引退を考え始めたという。

「自分もなんで出れなくなったのか最後まで分からなかったです。でも多分プレー面でHCと何かが合わなかったんだろうなと思います。3年目で活躍し続けられたらまだ続けていたかもしれないんですけど、もともとwリーグでスタメンになることが目標だったんで。スタメンになれたし、気持ちが切れたというか、燃え尽きじゃないですけど、能力的にも限界だなって。」

全く試合に出られない時期を乗り越え、チームメイトと生き死にを懸けた戦いを3年間毎日続けてきたのだ。自分がやれることを全てやり切った中でのプレータイム減少。精神的にも肉体的にも限界が来ていた。

また、次にやりたいことができたことも引退のきっかけになったという。

「3年目の6月頃に夢先生って言って小学生に「夢を持つことの素晴らしさ」について話す機会があったんですけど、それに選んでもらって。あとは子供たちにクリニックとかもやらせてもらって。『あ!やりたいことこれだ!これやりたい!』って思い始めていたのも引退のきっかけでした。」

高校まで全国経験なしからプロバスケ選手になった崎原選手。こうしてプロとしてのキャリアに幕を閉じたのだった。

最後にバスケットをする子供たちにメッセージを

現在、崎原選手は3×3などでプレーを続けながら地元千葉県を中心にバスケットボール教室を開講し、自らの経験を活かして子供たちにバスケットの素晴らしさやスキルを教えている。

「バスケットをしている子供たちに今何を伝えたいですか」という問いにこう語った。

「自分が伝えたいのは、経歴とかでもないし上手い下手でもない。一つの目標に対してそれに本気で志を持ってやり続ければ絶対プロ選手になれるんだ!夢は叶うんだ!何事も自分次第だよ!っていうのを伝えたいですね。」

高校まで全国の舞台を踏むこともなかった無名の選手が大学ではキャプテンを務めインカレ4連覇達成。プロバスケ選手としてスタメンも経験した崎原選手のバスケットストーリーはまだまだ続いていく。

 

崎原 成美(Sakihara Narumi)

1998年生まれ、千葉県浦安市出身。178㎝。小学生のときに姉の影響でバスケットボールを始める。高校まで全国経験はなかったが、東京医療保健大学時代にはキャプテンを務めインカレ4連覇を達成。トヨタ紡織に加入し3年目には開幕スタメンとしてチームに貢献。2023-2024シーズンで引退後、3×3でプレーを続けながら千葉県を中心に子供たちにバスケットボールを教える「AOKICKS HOOPS ACADEMY」でコーチをしている。

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この記事を書いた人

田村未来 田村未来 サイト運営者

田村未来
AND ONE NUTRITION代表/東京医療保健大学/山梨QB/元バスケ選手の管理栄養士/スポーツ栄養士/当サイトの管理人